昭和39年12月14日 朝の御理解



 「神の一言は千両の金にもかえられぬ。有り難く頂いて帰れば、船にも車にも積めぬほどの神徳がある」と仰る。この一言は、有り難く頂いて帰れば、船にも車にも積めぬほどの神徳があるということ。神の一言とはどういう一言であろうと。そこのところを皆さんが分からしてもろうて、これこそ、神の言葉だとこう感じたことをです、有り難く頂いて帰れば、おかげが頂けると仰ってないのですね。
 有り難く頂いて帰れば船にも車にも積めぬほどの神徳と仰る。だからその、神徳が現れると、だからその、神徳があらわれる。またの御理解に「神の御用をさしてもらう者は、朝寝をしてはならん」と。朝遅いと早いは信者が参ってくる朝夕に、早い遅いにかかわるぞと。みんなお取次ぎのものを上と心得て参ってくる。その取次ぎの者がおらなかったら、今日はお留守じゃったというて帰ろうがと。
 まあそういう意味のことを御理解しておられます、教祖様は。これはまあ取次ぎ者に対してくださっておる御理解ですね。取次ぎは神の前貸しと、神様の御用でもさしてもらう者は朝寝をしてはならんと。朝寝をしておる人を信者の遅い、早く参り遅う参りにかかわるぞと。御結界を空けてはならんぞと。御結界を空けて留守をしておると、神様、神様が留守であったように言うて信者が帰る。というふうに教えておられますね。
 神と心得て参って来る、取り次ぐ。そう言う様なふうに言われ、またお取次いただいておるもの、ね、お取次を許されておる者、御結界を扱っておる者、それは金光大神のお手代わりとしておかげを頂いておる。ね。金光大神の代弁者である。そういう気持でみんながそれを金光大神として頂く。だから、金光大神の言われることが、私は神の一言じゃなかろうかと。ね。
 今は、じゃあどこへ参っても言わば願い捨て。この方はどこへ参っても、その訪ねる所がなかったと仰る。ね、みんなはここへ参って来て、神様の御言葉を頂いて帰れるということは有り難いということではないかと。というふうにも教えておられる。片便の願い捨て。今までは神様がどこへ参っても仏様でも神様でも、もの言うて下さることがなかったろうがと。いわゆる、ただこちらが願うだけ。
 方便の願い捨てであったろうがと。ここへ参って来ると神の言葉を聞いて帰れるということが有り難いじゃないかと。金光大神の言葉を持って、言わば神の言葉として、言うておられます。その金光大神のお手代わりを許されている者、私は教師でもない、教会でもない。けれども、金光大神のその、手代わりを許されていることは自分で確信しておる。いや、むしろ私から頼んだのじゃあない。
 神様が(しもてみせよってから?)私に頼んでおられる気がする。大変な言い方ですけれどもそうなんです。してみると私の言う事は神の一言ということになるわけであります。ね。神がもの言うてくれることはないけれども、金光大神がもの言うて下さる。その金光大神がもの言うて下さるそのことが神の一言である。有り難く頂いて帰ればおかげは船にも車にも積めぬほどの神徳がその言葉の中にはこもっておる。
 夕べ、十三日会がすんで、福岡の(  )帰っておる、(  )はのっておりました。伊万里の竹内先生が、ご信者さん2、3人を車に乗せて、お願いしてみえられた。そんなわけで一緒に、ご祈念をさしてもらい、それから、御理解を頂いて、それから私もあちらへ下がってから、私は(  )としていただいた間に、もう帰る用意をしてそこまで出て来ておられた。
 私、その(?)の、とって便所から出てきたのと建郎先生方が福岡の皆一緒に帰ろうとしておるのが、(ぶんのところそれで?)道であった。あらもう帰りなさるとですかって私が言ったら、その秋永先生がはぁもう、タイミングが悪かったと、私もう一足引き上げときゃよかったわってから、また先生から(とべられとってやらりとう?)なるんですね。もう先生にそう言われたら弱いってわけなんですね。
 もともとその、裏口に入ってから、ちょうど12時まで、お話をさしてもらった、けしてもらったりして、頂いたわけなんですけれども、まあそん時に竹内先生、言っておられるわけなんですよね。先生が手前の時に止まったから、もうろくな事がないっち言いなさったですね。この中でも、櫻井さんがお参りして言いよりましたですもん、家はどうのこうの。(つどい?)さん、して2、3人(くぼえどきにかかった?)
 そん時にいや、お祭りつくねの晩でしたでしょうか、または皆さん、最後にお風呂頂いてからお休みなさいよと私は何回も言うた。とお風呂はご無礼しましと言うてその、みな休まれたんです。ね。(ところ?)もう先生がおっしゃることは本当に神の一言、それを守らして頂いて入らして頂きゃあええぞっと自分の長女が申しておりましたよってこういうわけなんです。
 例えばそうした、ならご結界から御理解というわけでもない、言うならそう言う様なことですらをです、大事に頂くということなんだと私は思うです。ですからそういう頂き方の中にはです、そういう働きもまたあると思うんです。これが神の一言は船にも車にも積めぬほどの神徳がその言葉の中に込められてあるからなのですよ。みなさんがその( ? )おもちでしょう。ね。
 とにかく親先生の言う通りにすりゃあええと、親先生が言う通りにさして頂きゃあいいんだと。おかげ頂けれるんだと、いうような思い込みを持っておられる方達がだんだん椛目にも増えてきたということは神の一言をですね、それぞれその調子でいかれてる信心のお育てであると私は思うんです。ね。私今朝方お夢頂いた。福岡の櫻井先生がちょうど歌舞伎の「くま」っていうですね、
 顔にこうあらが何というですかね、弁慶なんかをやります時に顔にこう青やら黒やらで赤やらで描きます顔に。あれを「くま」と申します。(なんきん?)その顔にくまを描いた様にですね、それがあの黒くですね、ちょっと青ずんだような黒い顔で、こう顔一面その何かあの顔で土ぐもか何かを、あのようにですね、その顔が汚れておられるんです。どうされたんじゃろうかととその、私は思いよったら。
 今朝の新聞であの顔をこう(くうとろぼう?)ですね、それがその浅野弁慶が新聞になっておるような感じなんですね、私のこのお話をしておることが、そのまあいちいちその新聞に載って、ほんな印刷したてのですね、その新聞でふいておられるもんですから、まあだその油が乾いてないもんですから、ね、新聞に黒く残るでしょうが、あの衝立の活字で顔をそれでも拭いておられるずっとこうして。
 しかもその残っておられるのでなくて、まるきりくまを描いた様に、生々と元気ないわゆる面持ちですかね、その顔がなっておるところなんです。ね。私はここで私が皆さんに伝えさして頂くのは、こう確かに活字だと活字とは、いきった字とかいてあります。言うならこう生きた言葉だと思いますし、皆さんが聞いたわけじゃありません、私自身も頂いております。ですからそれを有り難く頂いて帰ればということをです、有り難く頂くということはですいわゆる頂くのです。有り難く聞くのじゃないのです。
 有り難く聞く聞いただけでも言わば顔に、いわゆる精気がのぼるようなでしょうか。昨日、秋永先生が言うておりました、櫻井先生の表情に三通りあると。今日がこれはあなたおかげ頂く顔が一。あなた今日のごたる顔の時にはもう、いよいよ(うつしおち?)してから、おかげ落とす顔がある。その中にまあいっちょあるっちゅうてから、昨日話しておりましたが確かに、本当にそういうところを通っておられる。
 先日からもですね、本当に、もう、ある人がですね、包丁振り上げてから桜井先生に向かって来たっちゅうんです。もうそん時にですね、もうこれでもう、本当に神様が御用にお使い下さらんのならです、ね、ここで命が果ててもいいといこう決心がつきました。このことは本当に、椛目でおかげ頂いたおかげでございますと。そのまま御神前に座らしていただいたんです。
 そういとこを通っておられるんですね。それこそ椛目の朝の御理解がですたい活字がです、いわゆる椛目に現れておるということ。しかもそれを行じておられるところに(いよいよとみすだけでもできておるということ?)。これは頂いて帰っておられる証拠です。ね。聞いて帰るのじゃあない。頂いて帰らなきゃいけん。全員の心の中に頂いて帰る。それが、例えば一日の原動力ともならなければだめだということなんです。
 そこに、神の一言が船にも車にも積めぬほどの神徳としての現れが、様々な時に現れてくるんです。しかもそれをです、ね、ここで私がみなさんに御理解を伝えさして頂く、そのことは確かに、私は活字だとこう思う。ところが私が何気なしに、なら言うておるような事柄の中にでもです、ね、先生の言う、言われる通りにしておかなれば、いや言われるとおりにしとけばおかげになる。
 無理さようと言うてから辞退したり、言う事を聞かなかったら言わばお気付けくらい頂くくらいなですね、ものがその中にあるとこう確信さして頂くか、御理解だったらなおさら有り難く頂かなければおられないことになるでしょう。ね。皆さんがです朝のいうねの、その朝の御理解をです、神の声として聞かれそしてそれを頂かれ、それを行じられ初めて頂いたということになるのじゃないでしょうか。ね。
 それ以外にはないようです。あれは大坪総一郎の話でなく、金光大神の言わば神がかりだという頂き方。それを様々な言うなら、竹内先生のそのことじゃないですけれども、ね例えばそうした、朝の、何度もなるときの言葉でも神の声として聞かれるようなおかげを頂くことでですたい、理解をいよいよ有り難いものも生まれてくる。昨夜の御理解にですね、苦労を修行とわかるようになったら一人前だと仰る。
 苦労を修行と頂けるようになったら、信心も一人前だと、ね、その修行をです、ね、有難しと受けれるようになったらです、これはもうこれから先は限りはない力だ。実際は神様に力はないのだと、ね、疑うてかかればやはりもう神様も、もう働きはもうないのであると。ね。今日でも伊万里、一人の人とでも申しましょうかね、一人力の力をもって信じれば一人前の、言わば働きが現れるのです。
 10人力千人力。古賀先生がこちらへお参りをして間もなくでした、大変具合が悪かったもう言うならお母さんがおりませんでした。もう大変、もう本当素人じゃ難しかろうと見えた。医者を呼んでくれと言うから医者を呼びました。お医者さんが言うて帰りました。この病人はもう長くはもたんちゅうた。だからもうここはここで迷惑にならんごと早よ帰しなさったがよいということを断言して帰りました。ね、
 それから、お母さんに電波とった電話をかけました。そして薬をとりに買うていくからつうとおりいって、先の(このもとに?)持っていってやったですたい。そん時に中でいろいろ考えたこと。ね。自分は何のために椛目に来ておるのかと、これは神様に一心におすがりしておかげ頂くべきだと腹が決まった。私は当時あの毎日、(?)に言うておりましたから、先生このお薬は今晩、神様がお供えして下さった。
 もう私は決めましたと、お薬でおかげ頂こうとは思わんというわけなのです。私その薬をご神前に供えさして頂いた。供えたとともに神様からですね、心眼布、心眼家宝を頂いたんです、その中で野菜があるでしょう、御理解に根は小さい根は小さいが、この根は小さいが千人力じゃ千人力ぞか、先日その言葉を頂いた。根ということは心でしょう。それはもう本当にもう、それをその度胸その度胸と言うてもです。
 そらもう細々としたもう本当にか細い、ものでしょう。その晩ですその投げ投げ捨てて神様にすがるということ。ね、その度胸に神様が、免じてです言わば千人、神様が千人力の力を持ってあんたところに、もうすぐお薬をお供えしたら最後でしたです、境でしたです、おかげ頂かしてもろうてちょいと、もう私本部行ってからそう思いましたんですけれども、(?)も(かたぐちするごたったです?)、ね。
 もう本当にそれから気分が良くなり、起き上がるようになり、現在おかげ頂いておるんです。例えば私どもがそうした例えば、その日頃頂いておる教えをその時に、教えが生きてきてです、ね、そういう度胸ができたというだけで、神様が、なら千人力の働きを現して下さるわけです。ですからもう、あぁその千人力も一万人力も百人力もです、もうこちらの心次第ということなんでしょう。ね。
 この神様をそれこそ、無限力をもつと分かったと言いますけれども、それを言い方を変えますと、全然力を持っちゃおらんということです。問題はこちらに無限に有り難くならして頂くと、十人前有り難さを持っておる人、百人前の有り難さを持っておる人。だから、まあさっきのその御理解頂くなら素晴らしいなあとこう思うたんです。それはその御理解というのはなるほど神の一言となっていくことと感じるんです。
 縁側のその苦労を修行と頂けれるようになれば一人力、一人前とこう仰っとるですね。一人力なんです。言うなら私はその苦労が、今度は修行じゃなくてもそれを有り難く頂けれるようになったら、もう千人力にも万人力にもだろうかってお取次ぎさして頂いたんです。そしたら神様にそのこともこのことも頂かんです、ね、そして頂きますことはどういうことかというと、もうそれから先は限りがないとこう仰る。ね。
 例えば修行の有り難いというものを御理解で言うなら、相対し相用しというとこまでいったらです、もうこの相用しということはもう限りがない。有り難いというのは有り難いというのは、「5」有り難いと言うてる人もありゃあ「100」有り難いと言う人もあるでしょうが。「100」有り難い人が百人力、「千」有り難いという人には神様が千人力を持って、現れてくださるということ。神様を現すということ。このような例えば意味の御理解なんかでもです、神の一言として頂きゃあ素晴らしいことでしょう。
 果たして皆さんなら今のなら苦労を、それを修行とこう頂かして頂いておるかどうか。いや、それをこの頃だんだん、有り難く頂かして頂きよると言うかどうか。そこに、例えば神様を現すところの神様が現れて下さる、ね、神様の働きを可能と可能にする。ものがあるわけなんですね。いわゆる神の一言を有り難く頂いて帰れば船にも車にも積めぬほどの神徳と(?)くるわけなんですよ。どうぞ私の言うことを、皆さん神様のいうこととしてです、皆さんいけませんよ、というのではございませんです。
 私自身が神がかりを神がかりとして頂いておると言う事。それは金光大神のお手代わりを許されておる私でわるから、私もそれを信じておると言う事。それを行き届いた人は私のんならまあ順番の中にでもです、神の声を聞きよるということ。ね。そこに私はかたや皆さんのお願いというのは方便の願い捨てにならずに、ね、神の御言葉を頂いて帰れるということが有り難いと言う事ではないかと言う事が分かるとこう思うんですね。
   おかげ頂かなきゃなりません。